2014年6月7日土曜日

教育の目的に関する思考の整理(まだ浅い)

最近友人と、そもそも教育とはなにかって話すことが多い。そこで再考した。

というのも、これまでも、これからも、きっと教育を通じて課題を解決したいと思っていて、その課題というのは、国内の機会格差。だが、いま、この格差を是正することが本質的な現象面での課題なのか、自信を持てなくなっている。

ひとつは、以前書いたことと連動する。教育では、格差をなくすことはできない、という考えだ。なぜなら、格差とは相対的なものだから。

以前ブログに書いた主張を要約すると次のようになる。

教育には格差を是正する力があるけど、教育格差を是正することが必ずしも世の中の課題解決に繋がらないんじゃないかって話。なぜならそれは、相対性の問題に帰着するから。ひとりの子どもの学歴が良くなれば、他の子の学歴が悪くなる、というような、大げさだけどゼロサムゲームになるなと。これは学歴、という範疇において。まぁ生涯年収も、学歴に起因して、格差は必ず生まれる(高学歴→高収入企業への就職)。

もちろん、厳密にはゼロサムゲーム、ということはない。市場における経済成長が見られる、とか、高学歴と見なされる大学・大学院の受入れ人数が増える一方で、受験者数は横ばいまたは減少とか、となれば話は別。

他の要素もある。高卒で就職していた人口が大学進学して大卒で就職する、となれば生涯賃金は増加する。が、学歴インフレも起きるだろうし、高学歴の中でもどの大学に行くか、どの会社に就職するかという点で競争が生まれる以上、教育を通じて小さい頃の状況や機会の格差を是正するようであっても、結果的な格差そのものはなくならない。もちろん、格差を縮めることはできるけど。なので、いまは、格差是正って本質的な課題解決にならない気がする。

課題って、格差そのものに人が苦しんでいることではないように感じてる。うまく表現できないが、顕在する諸問題の多くが格差から発生しているからそれを無くしましょうってことなんだろうけど、本質的な問題は格差にはないんじゃないかと。

話が脱線した。

それで、教育の目的ってなにって話。

そもそも教育は、国が富むために必要な人材を開発する最適なツールとして活用されてきた。それが、個別化してきている現代社会において、もはや馴染まなくなってきているように感じる。

根本的な質問として、なぜ、国家に適した人材を今後も育成する必要があるのかという、アイデンティティが欠如しているが故の質問もでてきそう。うーん、少し考えてみたけど、国家という概念って本当に難しいんだなぁ。

まぁいい。どの立場から教育を語るかによって目的が大いに異なるから。自分にとっては富む・富まないにかかわらず、個々人が幸せに生きることができるか、他人を幸せにできるかどうかに尽きる。これは前に書いたことの繰り返しになるけど

  • 自分と他人が幸せになるための条件を知っている
    • 自己理解
    • 他者理解
  • 幸せになる条件を満たすための道筋を描ける
    • ミッション
    • ビジョン
    • アクションプラン
  • 描いた道筋を歩んでいくことのできる総合的な能力がある
    • 自分を動かす力
      • 精神力
      • 体力
      • 知力
    • 他者を動かす力
ってことだと。

それぞれの項目は非常に分岐する複雑な内容ではあれど、自分が受けてきた教育の多くは1点目・2点目について語ることはなくて、3点目から入る。それも、道筋が描けていないまま、なぜやるかどうかもわからず勉強なり、運動なり、音楽なりをする。

お金を稼ぐことや権力を手にすることが人生の目的にならない人には、そうしたものを想定している教育にはなかなか馴染まない(その意味で、多様性を掲げて実行に移すことのできる教員はすばらしいなと)。

自己満足のコメントになる。

いままで教育格差を改善することのすばらしさを感じてきたし、それは今も変わらない。だが、なぜそうした行為について自分が共感をするかは、自身の体験談以外に理解できてなかった。

いま、こうして整理していて理解した。格差に苦しむ立場にある中ですばらしい先生に会うことで、上記の要素を満たす可能性が高いと感じているからだろうな。具体的関連性が見えないけど笑、頭の中で繋がったから書かずにそれで良しとしよう。まさしく自己満足だな笑

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