2014年4月10日木曜日

なにをライフワークとするのか

自分にとって教育の質の向上と平準化は
とても重要なテーマだったと思う。

過去形なのは、そのテーマに広がりが
生まれていることと、その背景にいまは
目が向かっていることが理由としてある。

大げさかも知れないが、自分は幼少期に
過酷な環境に身を置いていたと思ってる。

多くの人の助けを得ることができてその
状況から脱し、一転して恵まれた環境を
手にすることができた。

毎日食事をすることもできたし、衣類や
住かの心配をすることも無くなった。

質の高い教育機会を得ることもできたし
それがきっかけで、生活するための礎を
築くことができた。

その経験から、生得的環境により十分な
教育を受けることの出来ない人に対して
質の高い教育の機会を提供したいなーと
漠然と思うようになった。

で、なんでなんだろうと、この動機に対して
質問をすればするほど、すごく曖昧模糊な
回答に至る。

シンプルに、幸せな感情を持って欲しい。

ここに至るプロセスの中で、教育の比重が
自分にとって大きかったから、これまでは
教育を主眼に置いてきた。

それが徐々に揺らぐというか、前々から、
前々というのは大学生の頃からだけど
広がりを持ち続けつつ、一方では仮説で
教育を解決策として設定してきたなと。

いま、とくに揺らぎつつあるのは、教育を
質高く普及したとしても、前提として思考が
考慮していなかったことが多い。

質の高い教育を受けると、学歴が高まり、
雇用市場での競争力がつく。結果として
給料の高い企業で働く機会を手にできて
生涯賃金が多くなる。
(ここから連鎖が継続する、という話)

二つの点で弱い。

ひとつは幸せの定義を生涯の獲得資本と
暗黙裏に設定してて、幸せの構成要素が
欠落してる。まぁ資本主義的か。

もう一つは質の高い教育とか、学歴とかは
基本的に相対、他者との比較が前提の点。
教育の質を高めたとしても相対的貧困者は
常に存在するから、解決しない課題設定を
していることになる。

相対性と幸せの定義をどのように解釈するか
すごく悩ましい。

価値判断は相対的な一方で、価値基準は
主観的で個で完結する話というか。

まぁこの辺を厳密に整理してみたところで
本質的な解決に結びつかないだろうから
ひとまず、標準を少しぼかしつつ、幸せを
形作るこのできる教育と、幸せを阻害する
可能性の高い貧困とに取り組む準備を
MBAでしていこうと思う。

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